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日本の住宅歴史


民俗学で民家とは伝統的な様式で造られた農家や漁家、町家の類、

それに中級から下級武士の侍屋敷を含むそうで、

特に年代の古いものは古民家と言うそうです。

民家には建築当時の生活が色濃く残されており、

また伝統的な地元の行事に結び付いた建て方がされていて地域差があり、

それが民家を知る上での楽しさであるともいえます。

長年住まい続けている民家は途中で増改築がなされ、

そういう長い歴史の中で姿を変えてきたのもある

意味ひとつの味わいだと思います。

日本の住宅の歴史は、はるか縄文時代にさかのぼれば

地面を円形や方形に掘り、その中に柱を建て、

梁や垂木をつなぎあわせて家の骨組みを作り土や

葦などの植物で屋根を葺いた竪穴式住居となり、

室町時代まで規模が大きくなり利用されていました。

鎌倉時代以降は堀立柱建築という形で柱のみを

地面に埋めて建物を固定していましたが、

やがて石の上に柱を建てる石場建て構法に発展してきました。

石の上に柱を建てる建て方は古く中国や朝鮮半島から

日本にも伝わりましたが、日本では限られた建物でしか

用いられませんでした。その理由は二つ考えられ、一つは自然災害の

多い日本の気候風土では地面に掘った穴に柱を埋めて

固定する構造は柱の太さに関係なくある程度地震や

台風に耐えることができて、建築費も安く、しかも技術的にも

簡単だったので庶民の住宅に採用されていました。

二つ目は豊富な森林資源に恵まれていたということです。

地面に柱を埋めると当然柱は腐っていくのですが、

豊富に木が身近にあったためいくらでも建て替える事が出来たのです。

中世以降は総柱型建物と言われる建物が主流になります。

これは母屋(もや)と庇(ひさし)と呼ばれる屋根を支える天井より上の構造と、

天井から下の碁盤の目のように2m~2.4m前後で統一された

柱の間隔を持つ空間をもつ建物です。やがてこの柱と柱の間に

間仕切り壁が設けられ、部屋として細分化されて現在の住宅へと進化してきました。

鎌倉時代には格式高い武家屋敷は石の上に柱を建てた礎石建物、

庶民は掘立柱建物と区別され建てられていましたが、

現存する最古の民家は兵庫県神戸市北区にある約1200年前に

建てられた箱木家住宅(はこぎけじゅうたく)です。

この民家は国の重要文化財で、建築されたのは806年と記録が残っています。

この箱木家住宅の間取りは正面から見て右側となる東側に「にわ」と呼ばれる土間、

西側には床が組まれていて、手前から「おもて」(客間)、「だいどこ」、「なんど」の

3部屋が配置されています。土間には竈(かまど)と厩(うまや)がありました。

またこの時代には畳もまだ有りませんでしたので板張りの床にむしろを敷いて

生活していました。

畳は日本独特のもので、平安時代に出現し江戸時代に広く普及しました。

竈(かまど)とは食品を加熱調理するために火を囲うための設備今で言うガスレンジです。

土や煉瓦などで箱をつくり上から鍋を落とし込み、下の焚き口からマキをくべて

調理しました。昔の日本の竈の多くには煙突の設備は無いために煙は焚き口から

そのまま出てきます。京都では「おくどさん」関西では「へっつい」などとも呼ばれます。

この竈から上がった煙で屋根などを支える木材は黒くなっています。

いぶされて木材が黒くなることは悪いことではなく、いぶされた木材は防虫の

効果が高いと言われています。

厩(うまや)とはウシやウマを飼う小屋、あるいは場所を差します。

庶民は同じ建物の中に厩を持ち、身分の高い人の家は別棟として建てられていました。

厠(かわや)は川屋とも書かれずばりトイレのこと。川屋と書くのは昔は川や海の上に

小屋を建ててそこで用を足していたからではないかとの説からです。

トイレはやっぱり昔から水洗だったんですね。

その他諸説は「かわや」ではなく「こうや」が訛ったとの説で、「こうや」とは

和歌山にある高野山の事。高野山の僧侶は髪を剃ることから髪を落とすが、

紙を落とすでトイレの事を「こうや」というようになったとか

本当の理由は解りませんがこのような雑学を調べてみるのも面白いかもしれませんよ。


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